不知新
背中にかかる重みに一層心拍音が速くなる。
耳元で語られる話にも意識を集中できない。逆にどんどん意識が離されてゆく。
世間の季節が冬だとしても現代の機械の性能からすれば部屋の中は暖かいはずなのに、
暑くもなく寒くもなく、
人がくっつきあったとしても何の支障もない今の部屋の温度がものすごく恨みがましく思えた。
いつも感謝して使っているエアコンをぶっ壊したい衝動に駆られる。
しかし温度設定をしたのは自分だ。今更嘆いても仕方がない。
だが少なくとも、こうなるように仕組んだ憶えは全くない。信じてほしい。
「知弥、聞いてる?」
不意に視界に入ってきた顔と、鮮明に聞こえた声に、反射的に返事をする。
反射的すぎて挙動不審な声になった。
「あ、な、何?」
「やっぱり聞いてない。だいらさー…」
話を続ける唇に目がいって、慌てて視線をそこから逸らす。
さっきよりもオレに体重をかけて身体を前に倒しているため、
顔がより近くにあって否応にも唇が視界に入る。
手に持った雑誌の一ページの一箇所を指差して、
オレが聞いていなかったために説明してくれているが、
はっきり言って全然頭の中に入ってきていない。
ちらちらと視界に、軽快に形を作り出してゆく唇が映る。
背に自分よりも多少高い体温がある。
鼓膜を揺すぶる自分の好きな声がする。
…手のひらに嫌な汗をかく。
持久戦は自分のプレースタイルではあったが、どうにも自制に対しては持たないらしい。
分かったか、とこちらに顔が向いた瞬間、どう行動するか考えるよりも先に、
一気に後ろを振り向き、肩を押してその身体を床に倒し伏せた。
頭は打たないように腕でカバーした。そのくらいの器量は見せる。
視線を下に向けるとオレの影を被った顔はきょとんとしていて、暴れるでも叫ぶでもなかった。
「今、やぁがどういう状況下にいるか分かるい?」
「…知弥に倒されてる」
「正解。じゃ、どういう意味かも分かるさいな?」
正直言って、暴れられないのと罵倒されないのには、すこしだけ拍子抜けした。
間が流れる。
今その言葉の意味を理解してくれて、逃げたそうとしてくれるなら、逃がすだけの理性はある。
今まで自分を抑えてきた結果の、友人としての幼馴染としての関係は水に消えるが、
無駄に傷つけるよりはよっぽどいい。
間の効果なのか何なのかは知らないが、
互いに外されることのない視線にありったけの想いをこめていると、
ふっ、と唇が弧を描いていた。
オレのではなく、浩一の唇が。
「分かってるさい」
決して馬鹿にしたような笑みではなく、言うなれば慈しむような、そんな笑みだった。
でも哀れみでもなく、受け入れるような笑み。
とたん、何故か一気に現実味がでてきて、オレを飛び急いで浩一の上から退いた。
もう何を言ったかも分からないまま部屋を飛び出して、廊下を走って、別の部屋に移った。
途中、柱の角に足をぶつけた。情けない。
部屋の戸を閉め、ずるずると床に座り込むと、時を狙ったように顔の中心に熱が集まってきた。
「…やばい」
小さく呟いた言葉に、やっとどんなことが起きたのか思い出すことができた。
頭を冷やして持ってくる! と訳の分からないことを言って、知弥は部屋を出て行った。
たぶん、頭を冷やしてくる、と、飲み物を持ってくる、が混じったのだと思う。知弥らしい。
しかし、あそこまで肝の小さい奴だったとは知らなかった。
昔からの知り合いで幼馴染の部類に入るだろう関係の中で、
知弥は結構男気のある奴かと思ってたのに。
食わぬ膳は男の恥だぞ、知弥。
折角こっちが、知弥が部屋を出た隙に部屋の温度設定を低くしたり、ワザとくっついてみたり、
耳元で喋ったりしてるのに…何であそこまで持っていっておいて逃げ出すかなぁ。
倒されてたままだった身体を起き上がらせて、がしがしと頭を掻く。
近くに熱源がなくなったことでブルッと寒気がして、低くしていた温度設定を何度か上げた。
ピッピッと気分にそぐわない電子音が響く。
おそらく知弥はあと十数分しないと戻ってこないだろう。
とりあえず手近にあった枕を掴んで握り締める。
我ながら大胆なことをしたと思うが、あまりにも知弥が何もしてこないので、仕方なしの強攻策だ。
それに…
掴んだ枕を抱きしめ、ボスンと床に倒れこむ。
「せっいく知弥の誕生日だいら頑張ったのに」
何とかこじつけがあれば知弥も諦めないと思っていたのに、
その言葉を言う前に逃げ出すとは思ってもいなかった。
「知弥の大ふらー野郎…」
呟いた言葉は、エアコンの稼動音に吸い込まれていった。
あとがき